2020年5月23日土曜日

レイ・ブラッドベリ

今朝の北海道新聞の『卓上四季』に、レイ・ブラッドベリの名前を見つけた。
久々にこの名前に触れて、読み返してみたくなった。
大学生のころ、ある方に紹介してもらって数冊読んでみたことがあった。
それまでの読書経験にはないタイプの小説で、魅了された。
短編の切れ味がよく、その中でも記憶に残っているのは、2人の親子が「無人星」に不時着して、父が息子に「そこの水たまりをのぞいてごらん、そこに宇宙人がいるから」と語りかけるという話だ。
何という題名だったか、細部がどうであったか。いや、本当にブラドベリの作品であったのかさえも、あやしい。
今となってはすべてが曖昧なのだ。
ブラッドベリを薦めてくれた人の記憶が曖昧になってしまったのと同じように。

2020年5月17日日曜日

今学校の先生がしていること

「命」というのが、単に心臓を動かし、血液を巡らせて、食物をとり、排泄することだと考えるのなら、学校に来ても、人ともできるだけ触れ合わせず、教科指導以外の諸々の教育活動を精査して、削減だけしていけばいいのでしょう。しかし、そんなことは普通の教師なら思わないはずです。どこかで、これで本当にいいのかなと思っているのではないでしょうか。

日野原重明さんが、「命は時間」だと言ったことは有名です。そう考えると、「教科指導以外の諸々の教育活動の時間を精査して、削減していこうとしている」学校は子どもたちの大切な「時間=命」を削っていると言えないでしょうか。もちろん、「命」を危険にさらして行事や教育活動をしようと言っているのではありません。また、教科指導が命を無駄遣いさせているなんて少しも思いません。しかし、子どもはそれだけで生きられるものではありません。おしゃべりしたり、遊んだり、話し合ったり、人との関係に悩んだり、運動したり。そういうことが、子どもたちにとって、とても大切なはずです。

そういうことができず、「命を守る」という大義の下、現状のような教育活動しかできない学校に、子どもたちを通わせることは、充実した「時間=命」の使い方を保障できないという意味で、やっぱり子どもたちの「命」を危険に晒すことだと言えるのではないかと思うのです。
だとすると、広い意味で「命(=時間)を守る」ためには、どんな学校にしたらよいのか、家庭での時間や地域で過ごす時間も含め、包括的に、子どもに「充実した命の使い方」が、可能な環境を考えなくてはならないのではないかと思うのです。

「新しい生活様式」は、決して子どもの体づくり、コミュニティーづくりやコミュニケーション能力の向上、情緒的な成長などを手放すことを意味していないと思います。むしろ、「新しい生活様式」の中で、今までと同じように子どもたち(人間)に必要な能力の獲得を目指すことが大切にされるのだと思います。

そう考えると、今までと同じやり方ではできないけれど、これまでと同じ効果をあげられる代替方法の創出に、私たち教師は力を込めなければならないのだと思います。そして、そうした方法を創出しようと、様々な先生方が、今努力されているのだと思います。

『人間関係の「ピンチ!」自分で解決マニュアル: マンガでわかる 10代のための』刊行

  人間関係の「ピンチ!」自分で解決マニュアル: マンガでわかる 10代のための | 山田 洋一, 明野 みる |本 | 通販 | Amazon 筆者のはじめての児童書です。本当に苦しんでいる子どもたちに直接言葉を届けたい。 もしよければ、教室に一冊おいていただきたいです。 内容...